昭和五十一年八月九日 朝の御理解 第十節


  「神が社へ入ってはこの世が闇になる。」


 私共が金光大神のお取次に依ってお取次を以て拝ませて頂いて居る神様はこういうお方でありますね。この神様のこの神様のおかげを頂かなければ生きとし生けるもの、まして人間それこそお先真っ暗と云うか、この世は闇のことになってしまう程しの御守護を下されてある神様だと云うことをです、ま、金光教の神観ですねえ、ですからここのところがそうだと本当に分かると云うことです。
 信心は、お道の信心はそういう神様のね、日夜分かたぬ御守護の中にあるのだと、義理が廃ればこの世は闇だとねえ、歌の文句で申します。本当に義理が廃ればこの世が闇になるだろうか。
 人情紙より薄し、もう現代世相から思うて向かうし今も変わらんのですけども、今は尚更それを感じる時代ですね。けども人情が廃ったぐらいで又は義理がなくなったぐらいでねえ、問題ではない。神様がお働きをもし中止なさったらそれが本当のこの世が闇になるのである。ね、そこで私共がそこが分かると云うことはどういう事が分かる事かと云うならねえ、目が覚めたということも今日御守護の中に目覚しのおかげを頂いたと分かることだねえ。
 自分の周囲周辺の全ての事柄全てのもの、もうこの神様のお働きの中に御恩恵の中に生かされてあるんだ。自分がああしたこうしたと言うけれどもこの神様のおかげを頂かなければここ一寸動けんのだとねえ。
 「為すと言え為し得る条件恩恵のなくばなしえず何一つとして」であります。現教主金光様のお詩です。「為すといえ、為し得る条件恩恵のなくば為し得ず、何一つとして」何一つとしてこの神様のおかげを頂かなければ為し得ないんだとね、そういう事実が私共が分かると云うことがお道の信心が分かると云うこと。だから分かれば分かる程御恩恵の中に浸らせて頂いとるのですからねえ。もう御礼を申し上げねばならない中にあり、又ことばっかりだと云うことであります。
 私はねえ、今日のこの御理解は私共が天地金乃神様と云うて金光大神の取次を以て拝ませて頂いて居る神様は、こういう方だと云うことが分かるだけではいけない。知るだけではいけない。それが本当に分かると云うことはそういう限りない御恩恵の中に、その恩恵を蒙っておるんだと云うことが分かり、それに対する神恩報謝の心が湧かなければならんと云うことを今日は聞いて頂いて居るんです。 ねえ、何処が痛いの痒いのと言っておるけれども、その痛い痒いとてもです、神様のおかげなのだ、御恩恵の中にあればこそ痛いのであり痒いのである。ね、人間が冷たくならせて頂いたらもうそれでおしまい。痛くもなからなければ痒くも感じんのである。お生かしと云うお恵を受けて居るからこそなのである。
 まあ、ですからこれをハハアー金光様はどういう神様ですかと、それはこういう働きをなさっとる神様ですよ、教えてやったり分かったりするだけではいけない、ね。いわば実感として冷たい水の中に手を差し込んだら、ハアー冷たいと思うし、熱いお湯ん中に手を入れたらアッツと云う様な実感を以てこの神様を頂くと云うことは、分かると云うことは、そういう事だと思う。だから冷たい又は熱いが有難いのである。
 今朝二階にさがらせて頂いてずーっとこの頃はもう殆ど日本国中のご信者さんがございますから、もう国の隅々から、先ず例えば九州で云うなら大分に入って宮崎そして熊本そして鹿児島、長崎佐賀そして福岡、地元と全県にここのご信者がおられます。それから山口県に入ってずーっと東京の方に登って行くわけなんです。そう登ってその御祈念をさせて頂いとるときに、あの死ぬる時にここに三角布をこうはめるでしょう、三角布それをこうはめて後で結ぼうとしているところを頂いた。ハッと私は思わせて頂いて、もう死ぬるか生きるか死に際のところを通っておる、云うなら信者が居るのです。だからそこんところに祈りを止めて一心にお縋りさせて頂きよったらその三角布が下さんスーッとずり落ちたところを頂いた。やれやれとまあ次の御祈念をされた。ね、もう死の云うならそれこそ死んだからとてこの神様のおかげを頂かんといかんのだけれども、ましてまだこの世に生を受けて居る、まだ生きておるねえ、三角布をこうここにするにしてもねえ、するまでは神様のお生かしを頂いとる。死ぬ生きるの刹那のですらもやはりこの神様のおかげを頂かなければならない。もうこれから先は分からんと云うことはないと云うことです。
 今日御祈念中にここのお手洗いの水が全部枯れておるところを頂いた。下からこんこんと水が出ております。それが全部空になっとるところを頂いた。はて、どうした事だろうとね、皆さんが手を洗い口をゆすがせて頂くあのところです。勿論口だけではありません。口をゆすぎ清める時に自分の心も一緒に清める思いで、手口をゆすがせて頂いておられると思うのです。
 昨日或方がここのお手洗いは何処でも外にあるけども、ここは家の中にしてあると云う訳を聞かれた方があった。それでこれは私の思い付きでね、御本部へお参りさせて頂いてもそうだったけども、お手洗いで手を洗ってくる。折角口もゆすぎ手も清めて来たのに又お広前に上がる時に履物を下駄箱の上にこう置かなければならん。私しゃ必ずです、ハンカチやチリ紙を出してそして下駄を握って下駄箱の中に入れた。又履物を扱わにゃならんと云うことがそれで私は工夫をして脇殿にああした大きな手洗鉢を入れることにした。下駄箱に下駄を入れる、そして手洗鉢の方にちゃんと来る道順がそげん出来とる。ここの場合はね。下駄を下駄箱の中に入れてそれから手洗いのところに来てから清める。そして清めたそのままをお広前に向かっていくと云う様に、はあそういう風にしてあるのですかと、云う様なことを話したんですけどもね。その清めたものが又汚れてはならない。そういう心使い。
 私は今日頂いた手洗鉢の水が枯れてしまっておると云うことはどういうことだろうか、お互い信心をさして頂いて何を以て改まり何を以て改まるのか。よく信心は日々の改まりが第一、信心とは本心の玉を研くものぞやとある。
 私しや昨日お道の新聞を見せて頂いとりましたら、師あり道ありと云うタイトルで日本中のお年を取られた、いわゆる長老的な先生のお話がここ一面に何時も載ってくるんです。或先生のに記者が一問一答的なお話を伺っておることが出ておりました。
これは何時の場合でもそういう年寄り、年を取られたこの先生も八十何歳の先生ですけども、最後に言われることは、言われるまあ質問することは、先生今の若い教師に何を感じておられるですかと云う風に質問しとるのに対して殆どがそう言われておりますね。今の若い者は頭ばっかりで、云うなら頭でっかちで教学とかなんとか云うけども教学じゃ人は助からん。今の若い教師達に言いたいことは祈念力が欠けておると云うことだと云う風に言うておられますですね。これはもう殆どそうです。今の若い先生方は祈念力が足りん。勉強だけはする、教学は大変教学では人は助からんのだと言う訳です。昨日そこんところをその午後の研修の時にまあ取り上げて話した事でございましたけども、ところがそういう祈念力をもっておられる先生方の教会が果してどういう教会でありどういう助かりを見た教会かと云うことを見らなければならん。成程祈念力に依って病人が助かった、開けない道が開けたと確かに祈念力は強かったろうけれどもねえ、大した御比礼が立っていないとするならば只祈念力を以て神様をごうぐる様にしてどうぞどうぞ助けて下さいと云う祈念をして人が助かると云う様なことは本当の比礼にはつながっていないと云う事実を改めて私しゃ発見する。何時の場合もだから皆さんの場合でもそうだと、昨日の先生方にお話をしたことでした。
 確かにこの神様は祈念力を以てそれこそ立ち切れもどうぞ枯れる様に枯れる様にと云うたら枯れるくらいな働きはあるんですねえ。だから祈念力も大事だけれどもそれほどしの祈念力をです、ねえ云うなら自分自身が助かることの為にねえ、先生自身が助かると云うことは自分自身が喜びに浸られる安心の大みかげの頂けるほどしの信心が頂きたいと云うてのそういう凄まじい祈念力をなしていったらその教会は素晴らしい御比礼とも又はお徳を受けていかれたでもあろうと、只人が助かるお取次をさして貰う、病人が普通病人が助かります様にと云う祈念力ではなくて、自分が一段とよりよい有難い信心に進ませて頂くことを祈り願わせて頂く。ねえ、
 昨日の御理解を引用すると、信心は何を云うても神様の心を心とする信心を頂くことが大事なんだね。神様の心を今日の御理解でもそうです。ねえ神が社に入ってはと云うこの神様は、この神様の心が分からなければ実感としてこの神様のおかげを受けて居ると云うことを感じられんのです。
 神の心を心とする生き方、ねえ、それには何と云うても天地日月の心になること肝要なりと仰せられるね。天の心とは地の心とは。その天の心を地の心を自分の生き方の上に頂いていこう。日月の心それこそ実意丁寧そのままの日月の心を自分の信心生活の信条ともさせて頂こうと、そういう信心を分からせて下さい、そういう修行をさして下さいと云う様な祈りを以て熱願ですね、いわゆる祈念力を以てそういうね、神様が一番喜んで下さるであろうことを祈り願いとしてね、その凄まじい祈念力をです、それこそ一晩中でも祈り明かすと云う様な、どうぞあれを助けて下さい、これをお道を開いて下さいと云った様なケチな願いではなくて本当に神様の心に叶う信心を分からせて下さいと云う様なことにその祈念力がかえられたら必ずその人は徳を受けるだろう。その教会は隆隆たる御比礼が輝くことであろうと言うてお話をしたことでした。だから皆さんでもそうなんですよ。自分の願い事持たない者はありませんから、どうぞその願いが成就致します様にと云うて日参り夜参りそれこそ一生懸命にお願いをしておかげを頂いたとてもそれだけでしょうもん。油断をすると又元に取り落としてしまわなければならんのがおかげです。ね、そういうおかげではなくてです、真の信心が分かりたいと言うてのその日参りであり夜参りであり、又が御祈念でありと云うことになる時にです、ね初めて信心が血になり肉になり、云うなら神の心を心として頂いていけれる様になる。云うならば義理もなからなければ人情も要らん、只神様ひとつねえ。神心ひとつと云う意味なんですね。
 その神情を以てしなければ心行が分かる筈がありません。その神情を以てしなければです、神様の心が分かる筈が有りませんねえ。 そこで今朝から私がお手洗いの水が枯れておると云うことはお恵の水がかげておると云うことは、只おかげだけがおかげと感じることだけがです、例えば願っておった病気が治りました、願っておった金銭のお繰合わせを頂きました、願っておった人間関係がスムーズになりましたと云った様なおかげではなくてね、それとは反対の云うなら難儀と云うかあらゆる難儀と云う難儀がこれ一切が神様の御恩恵だお恵みだと知ることだと思います。そういう例えば私共が難儀と思うておるそういうお恵が只売れた売れたと云った様なおかげ、ハアー健康であると云うだけのおかげ、家庭が円満であると云うだけのおかげ、そういう事だけがお恵であるとしたならば、人間の向上は先ずはなくなるでしょう。それに止まってしまうでしょう。そこに難儀と云うお恵があるからこそその難儀を以て改まり難儀を以て清めていこうと云うのです。だから限りなく信心が進展していく。限りなく神様に近づいていくことがでけるのも、その難儀様のおかげなんです。だからそれは難儀様ではない、御恩恵だと私共は分からせて頂いた時に初めてこの御理解十節にあるところの神様が分かることになるのじゃないでしょうか。
 ハアーあん時に難儀なことだと思うておった、あん時にはがゆい又は情けない切ない思いをしたけれども、ああ云う思いをさせなさるところに神様の心があった、親心があった、神愛があったと分からせて頂く時に私共の周辺の一切が輝かしい恩恵の中にある吾であることが分かってくる。
 神様はこの様にして一段と信心を進めて下さろうとする働きなんだと分かった時にねえ、叩かれれば痛いでしょう、ねえ悪口を言われたら腹も立つでしょうけれども、腹を立てる段じゃあない。痛いけれども有難いと云うことになってくる。それが初めて私は神のお心が分かり御恩恵が御恩恵として分かった時だと私は思いますねえ。お手洗いの水が枯れてしまうと云うことはねえ、信者がおかげを頂いて、もうハアお金にも不自由せん、健康にもなった、家庭もおかげで円満にある。
 昨日は岩水から参って来る、も久振りに参って来た方がある。安東さんのところへお参りをする。それで安東さんのところへ今朝からこげなお夢を頂いたと云うて言うて見えた。その人が昨日その訳を私が伝えてやりましたから昨日午後から参ってきた。安東さんから聞いたけれどもようと分からない。それはどういう事かと云うと、この辺ではとん豆と言いますよね、夏豆、そら豆のこと、そら豆の花が紫色にいっぱい咲いておるところをお夢に頂いたと云う。ねえ、だから私が安東さんにことずけましたけれども、それがよく徹底しなかったようです。そら豆と云うことは豆と云うことは健康と云うことである。健康がそらと云うことはカラと云うことである。健康が空になる、云うならば健康が今はおかげを頂いてみんな無事達者といよるけれどもね、只おかげを頂いて信心する様になっておかげで健康になった、内も円満になったねと云うてちゃーんとうちでのほほーんとしておるとです、又そこが痛うございます、痒うございますと云うて参ってこなければならない様になるぞと、それこそ健康でありね、おかげで家庭が円満であるならある程にです、いよいよ御礼参りの信心をさせて貰うてより、いよいよ有難い信心を身につけていこうと云うことにならんと今の安心はそら豆的安心だと云う御理解であった。そら豆の花がね、紫色をしとると云うことはね、安心、けれどもそれはカラ安心だと云うこと。そら豆ね、実のない裏付けのない安心、云うならば安閑としとるだけなんだ、それでは又痛い事が起こりました、痒いことが起こりましたと云うて慌ててお願いに出てこなんことがある。だからそれではね、如何にもお恵の水が枯れてしまっておると云うことがね、有難いことの様にあるけれども、お恵の水はいっぱいなからなければならない。そのお恵と云うのはねえ、私共より一段と高めて下さろうとする働き、そのものが本当の意味に於てのお恵なんです。それをお恵を恵として分かった時にですね、苦しいだからどうぞ苦しいことを助けて下さいと云うだけではなくてそれによって一段信心を分からせて下さい、進めさして下さい。いよいよもって天地日月の心を吾が心としての信心を身に付けさせて下さいと云う様な信心にこの先生が仰っとられる様にね、凄まじいまでの祈念力を以てそれが願えれる様なおかげを頂いたらいよいよお徳を受けることだろう。
 あの世にも持って行け、この世にも残しておけると云う程しのお徳が受けれることだろう。只願い事にね、只祈念を凝らすと云うだけではそれではわざわざ金光様じゃなくてもよいと云うことになるのです。
 わが心に神がござるから一心を立つればね、おかげになると云う様なおかげであるならばこの柱一本を拝んでも奇跡くらいは起こりますね。自分の心に奇跡が起こらなければならない。自分の在り方に奇跡が起こらなければならない。「  」の人が日になる程のそれこそ二人見る様なねえ、おかげを頂いてこそ初めてねえ、この十節に説かれてあるところの神が社へ入ってはこの世が闇になると云う程しに守り通しに御守護を下さって居る神様が分かると云うことは今日聞いて頂いた様な内容を身につけて初めて確かにこの神様のね、昼もなからなければ夜もない、悪いこともなからなければ良いこともない、一切の中に神様のお働き御恩恵が満ち満ちて居るんだと云うことを分からせて頂いて初めて天地金乃神様が分かったと云うことになるのじゃないでしょうかね。どうぞ。